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『人物』という関連キーワードがついているイベント・観光情報一覧 ( 該当45件 )

千葉市
【青木昆陽】
千葉市
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青木昆陽は、江戸日本橋の魚商佃屋半右衛門の一人息子でした。本名を文蔵といい学門に志し京都の儒者伊藤東涯に入門しました。のち、江戸に帰り加藤枝直に見出されその紹介で町奉行大岡越前守忠相に抜擢されて幕府の書物方に列しました。また、“蕃薯考”を著わし甘藷栽培を救荒食とすべきことを将軍吉宗に上書し認められました。享保16年(1731年)に江戸小石川養生所の養生園で育苗しその苗をこの地下総馬加村夜縄と山武郡豊海村(九十九里)不動堂に試作しました。これをきっかけに下総地方一帯に甘藷の栽培が普及しました。
場 所 : 千葉市 連絡先 : 千葉市生涯学習振興課 043-245-5962
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【千葉常胤】
千葉市
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千葉常胤は、大椎城(現在の土気町)に生まれました。長承4年(1135年)に家督を相続(18歳)し亥鼻(現在の千葉市中央区)の居城や所領の相馬御厨(現在の柏市、我孫子市周辺)を受け継ぎました。治承4年(1180年)に石橋山の合戦で平氏に敗れた源頼朝を助け兵300を率いて救援、東国支配確率のため鎌倉幕府樹立に大功を立てました。千葉常胤は平氏打倒に余る関東の武将を取りまとめ木曾義仲追討、一の谷の合戦などで活躍しました。千葉常胤の働きに対し源頼朝は正月には必ず千葉常胤の屋敷で新年を祝うほど厚い信頼を寄せられました
場 所 : 千葉市 連絡先 : 千葉市立郷土博物館 043-222-8231
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市川市
【小林一茶】
市川市
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小林一茶は、二六庵竹阿の門人となりました。方言や俗語を駆使して不幸な体験からしみ出た主観的で個性的な句で知られます。安政4年(1857年)に師匠から離れ一茶とだけ号しました。寛政10年(1798年)に馬橋の大川立砂と市川真間にある手児奈堂で遊び句を残しています。真間山弘法寺境内に「真間寺で斯う拾ひょ散紅葉」の句碑があります。また、葛飾八幡宮境内にも句碑があります。
場 所 : 市川市 連絡先 : 市川市文化振興課 047-334-1111
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【北原白秋】
市川市
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北原白秋(1885年~1942年)は、詩人、童謡作家、歌人で近代象徴詩運動で歌壇に影響を与えました。明治37年(1904年)に中学を中退して上京、早稲田大学英文科予科に入学しました。以降「明星」「スバル」などに短歌、詩を発表しました。明治42年(1909年)の24歳の時に、第一詩集「邪宗門」を刊行して2年後に「思い出」を出版すると、エキゾチックな官能あふれる詩はたちまち人の心を捕らえ、象徴派詩人としての地位を確立しました。
場 所 : 市川市国府台 連絡先 : 市川市文化振興課 047-334-1111
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【永井荷風】
市川市
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永井荷風は、明治12年(1879年)生まれの小説家、随筆家です。昭和21年(1946年)に市内菅野に移り住みました。その後、京成八幡駅にほど近い八幡3丁目に家を新築しこの家が終焉の家となりました。「人に迷惑をかけず、かけられず」をモットーとした永井荷風は79歳で看とる人もなく亡くなりました。市川周辺を舞台にした「来訪者」「或夜」「羊羹」「畦道」「にぎり飯」「買出し」や随筆「葛飾土産」などを残しました。また、大正6年(1917年)9月16日より死の前日まで42年間にわたる日記「料腸亭日乗」を残しました。
場 所 : 市川市 連絡先 : 市川市文化振興課 047-334-1111
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野田市
【鈴木貫太郎】
野田市
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鈴木貫太郎は、慶応3年(1867年)12月、泉州久世村伏尾(現在の大阪府堺市)の関宿藩の陣屋(代官所)の代官・鈴木由哲の長男として生まれました。関宿久世小学校、群馬中学校を経て明治17年(1884年)、海軍兵学校第14期生、海軍少佐、海軍大将、海軍軍令部長となり、昭和4年(1929年)に天皇陛下にお仕えする侍従長に任命されました。しかし、昭和11年(1936年)2月26日、通称二・二六事件の衝撃の的となりました。未明に私邸で兵隊に囲まれ4発の銃弾を受け倒れたが九死に一生を得ることができました。
場 所 : 野田市(旧関宿町) 連絡先 : 野田市社会教育課 04-7125-1111
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【関根金次郎】
野田市
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関根金次郎は、第十三世・将棋名人です。明治元年(1868年)、野田市の東宝珠花に生まれました。子供の頃から緑台将棋に熱中し、10才頃には「宝珠花小僧」と呼ばれ、11才の時に11世名人伊藤宗印に弟子入り、20才で3段、24才で5段、大正10年(1921年)には第13世名人位に就きましたが、終身名人位を辞し、当時一代一名人制であった棋界制度を実力名人制に変え近代将棋の基礎を築きました。宿命のライバル、坂田三吉との名勝負は有名です。
場 所 : 野田市 連絡先 : 関根家 04-7198-0323
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【山中直治】
野田市
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作曲家・山中直治は、明治39年(1906年)に野田市山崎に生まれました。大正14年(1925年)に市立中央小学校の教員となり作曲活動を始めます。初めは北原白秋や野口雨情などの詩に曲をつけ試作していました。昭和7年(1932年)にコロンビア作曲部の専属となり島田芳文作詞の「だんだん畑」や「お祭り」など30曲以上の作品がレコード化されました。昭和8年(1933年)には50曲収録した「山中直治童謡曲集」が出版されました。
場 所 : 野田市 連絡先 : 野田市市史編さん室 04-7125-1111
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我孫子市
【志賀直哉】
我孫子市
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志賀直哉(1883年~1971年)は、初めて自家をもったのは大正4年(1915年)の我孫子の弁天山です。以来、京都に移るまでの7年半に渡り手賀沼べりの住まいで精力的な創作活動を行いました。
この間、「和解」・「暗夜行路」・「城の崎にて」・「小僧の神様」など志賀文学の頂点を成す作品が次々に執筆されました。「雪の日」・「流行感冒」には我孫子の風景、風物が描写されています。その他にも「佐々木の場合」・「好人物の夫婦」・「十一月三日午後の事」・「雪の遠足」などが書かれました。
場 所 : 我孫子市 連絡先 : 我孫子市教育委員会文化・スポーツ課 04-7185-1583
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【武者小路実篤】
我孫子市
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武者小路実篤(1885年~1976年)は、志賀直哉と同じ白樺派の文人です。大正5年(1916年)12月に志賀に勧められて手賀沼湖畔の船戸の森に隣接する美しい森の中に邸宅を構えて移り住み大正7年(1918年)9月まで我孫子で生活しました。我孫子時代の作品には「日本武尊(やまとたける)」・「AとB」などがあります。大正7年(1918年)9月にはこの地で武者小路が夢見た理想郷「新しき村」の発表式がこの庭園で開かれました。
場 所 : 我孫子市 連絡先 : 我孫子市教育委員会文化・スポーツ課 04-7185-1583
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【岡田武松】
我孫子市
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岡田武松は、明治7年(1874年)に我孫子市布佐で生まれました。明治32年(1899年)に東京大学物理学科を卒業し中央気象台に入り、明治44年(1911年)に「梅雨論」を発表し理学博士となりました。大正7年(1918年)には創設にたずさわった神戸海洋気象台初代台長となり大正12年(1923年)から昭和16年(1941年)までの18年間、中央気象台長を努めました。その間、地方測候所の整備、気象災害の防止に尽力しました。行政で優れた指導力を発揮すると共に学術面では論文、著者を多く発表しました。
場 所 : 我孫子市 連絡先 : 我孫子市教育委員会文化・スポーツ課 04-7185-1583
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【村川堅固】
我孫子市
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大正6年(1917年)の頃、まだ37・8歳だった堅固教授が我孫子宿本陣の離れの一部を買い取り、別荘地に移築しました。また、昭和初期には教授が朝鮮行きの後、別荘地に銅板葺きの一見御堂のような建物を建てさせました。
場 所 : 我孫子市 連絡先 : 我孫子市教育委員会文化・スポーツ課
04-7185-1583
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【柳田國男】
我孫子市
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民俗学の父といわれる柳田國男(本名松岡國男)は、長兄の医師松岡鼎(かなえ)と共に布佐で少年時代を過ごしました。在住期間は短いものの体が弱い為学校にも入らず裸で飛び回ったり、やたらと本を読む生活をし13才のときはじめてイナサに吹かれて一日何百も利根川をゆく白帆を見て広い世の中を感じたり、船や風の名や海上交通への関心を抱いたこともあると少年期を回想しているように利根川の風土に親しんだり少年期の経験は後年柳田民俗学を築く礎になったと評されています。
場 所 : 我孫子市 連絡先 : 我孫子市教育委員会文化・スポーツ課
04-7185-1583
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【杉村楚人冠】
我孫子市
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杉村楚人冠(明治5年(1872年)~昭和20年(1945年))は、関東大震災(大正12年(1923年))後かねて買い求めて山小屋としてときおり遊びに来ていた我孫子の土地に一家を挙げて東京の大森から居を移しました。屋敷を白馬城、家を枯淡庵と称していました。楚人冠は米国公使館員を勤めたのち朝日新聞記者となり鋭い軽妙な筆致で「大英遊記」などを連載し大記者としての名を天下に知られました。
場 所 : 我孫子市 連絡先 : 我孫子市教育委員会文化・スポーツ課 04-7185-1583
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【バーナード・リーチ】
我孫子市
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バーナード・リーチ(1881年~1979年)は、日本をこよなく愛し陶芸界に大きな影響を与えたイギリスの陶芸家です。明治42年(1909年)に来日し上野桜木町でエッチング教室を開設しました。その後、白樺派の同人柳宗悦の紹介で六代目尾形乾山の門下となり楽焼きの研究に打ち込み大正5年(1916年)には乾山の本窯を譲り受けました。我孫子の天神山にあった柳宗悦の別荘内に窯を築きました。大正8年に窯が焼失するまでの3年間、我孫子時代といわれるように陶作に熱中し数多くの名品・名作を作り出しました。
場 所 : 我孫子市 連絡先 : 我孫子市教育委員会文化・スポーツ課 04-7185-1583
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銚子市
【田中玄蕃】
銚子市
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田中玄蕃(第三代目)は、当時の名は石橋源右衛門で元和2年(1616年)に摂津西ノ宮(現在の兵庫県西宮市)の酒造家からしょうゆの醸造法を学び銚子で初めて「たまりしょうゆ」醸造を始め、売り出したといわれています。田中家は大地主で主業は漁業でした。漁業の余暇労力を利用して自家製として傭人の自給のためにつくった程度といわれています。第四代目の時に地元の役人と同名であったことから改名を命じられ以後代々田中玄蕃を名乗るようになりました。
場 所 : 銚子市 連絡先 : ヒゲタ醤油株式会社 0479-22-0080
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佐倉市
【佐藤泰然】
佐倉市
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幕末の蘭方医です。長崎で蘭医学を学んだ後、江戸に塾を開いていました。1843(天保14)年には、佐倉藩主堀田正睦の招きに応じ、佐倉に移住し、本町に蘭医学塾兼診療所「順天堂」を開きました。20年間佐倉に移住し、天然痘から佐倉藩の多くの人々を救うとともに、佐倉において日本で最初の膀胱穿刺及び卵巣水腫の手術を成功しています。
場 所 : 佐倉市本町 連絡先 : 佐倉市商工観光課 043-484-1111
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【浅井 忠】
佐倉市
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浅井忠は、日本の洋画の先覚者として世界中から高い評価を受けた人物です。「春畝」「収穫」(いずれも国重要文化財)、「花園口上陸図」(佐倉市指定文化財 佐倉市立美術館蔵)などは代表的な作品として有名です。また梅原龍三郎、安井曽太郎などを育てています。1863(文久3)年から10年間佐倉市将門町で過ごし、佐倉藩校成徳書院将門分校で学んでいます。また、佐倉藩の画家黒沼槐山に1年ほど絵を教わっています。
場 所 : 佐倉市将門町 連絡先 : 佐倉市文化課 043-484-6192
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【津田梅子】
佐倉市
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佐倉藩士であった津田仙の二女として江戸で生まれています。1871(明治4)年日本最初の女子留学生として8歳で渡米しました。アメリカの小学校、女学校を卒業し、キリスト教に入信しています。帰国後は、華族女学校に勤め、再度アメリカに渡り、カレッジを卒業し、その後イギリスにも留学しました。帰国後の1900(明治33)年東京麹町で「女子英学塾」(後の津田塾大学)を開いています。
場 所 : 佐倉市 連絡先 : 佐倉市文化課 043-484-6192
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【堀田正睦】
佐倉市
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1825(文政8)年家督相続をし、佐倉藩主となりました。困窮する佐倉藩の財政再建に成果をあげ、また、佐倉藩内の蘭学を盛んにしました。老中首座在任中の1857(安政4)年には江戸城でアメリカ総領事ハリスと会見、通商条約締結を内定しました。1864(元治元)年佐倉城三の丸(現堀田正睦公銅像付近)にて亡くなっています。
場 所 : 佐倉市 連絡先 : 佐倉市文化課 043-484-6192
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